今まで誰にも、どこにも書いていなかったことなのですが、私は「反社会性パーソナリティ障害」になりかけたことがあります。
医者から「反社会性パーソナリティ障害」という診断を受けたわけではありませんが、今思うと多分そうだったんだと思います。
今回は、そのことについて書いてみます。
いつ頃のことか?
私が「反社会性パーソナリティ障害」になりかけたのはいつ頃のことかというと、最初の会社(機械部品製造工場)で体調不良になって入院し、それが原因で退社した頃のことです。
10年間の工場勤務から本社勤務の生産管理担当になって、週に何日も徹夜することが続いた結果、心身症の一歩手前の段階で入院しました。
それで会社を辞めることになって、写真スタジオに転職したのですが、転職前に半年ほど苦悩の期間があったのです。
なぜそんなことになったのか?
私は、ずっと自分のことを責任感の強い我慢強い人間だと思っていました。
だからこそ週に何回も徹夜をして、工場の人達の段取り替えの仕事が増えないように一生懸命やってきたのに、誰もそれに対して感謝の気持を表すこともなく、むしろ頻繁に生産計画が変更になることを非難してきました。
ある朝、起きることができなくなって会社に行けなくなったのは、こういうことが続いたからです。
しかし、過労のために心身症になりかけたというのは必ずしも真実ではなく、自分が心身症になってしまうほど悩んで頑張って徹夜をして仕事をしているのに、その仕事を認めてくれない工場の人達に怒りを覚えていたのです。
おそらく、その頃の私は言動が粗暴になっていて、職場の人たちにも迷惑をかけていたのだろうと思います。
退社に関する真実
私はこれまで、この入院をきっかけに会社を辞める決心をしたと説明してきましたが、実際は、退院後会社に出社してみると無断欠勤を理由に退社手続きが進められていたのです。
実際、私はとても驚いたのですが特に異論を主張することもなく、退社を認めました。
おそらく私の異常な言動は社内でも問題になっていて、入院して会社に来なくなったのをいいことに無断欠勤ということにして、うまいこと退社させたのだと思います。
そう考えてみると、私が入院している間、会社関係の人は誰も見舞いには来ませんでしたから。
その後の半年間の生活
次の日から行くところもなく収入もなくなり、渋谷や新宿や池袋のちょっと裏手の通りや公園などに行くことが増えました。
特に目的はなく、人がそこそこ居ても、誰も自分に関心を持たず、大声を出しても、公園の遊具を手荒く扱って壊しても、誰も何も言わない、そんなところで過ごしたかったのです。
ある日、池袋の公園でゴミ箱に当たり散らしていたときに、きちんと背広を着た初老の人が声をかけてきました。
具体的にどんな話をされたのかは覚えていないのですが、私はその人に祖父の面影を見て急に素直な気持ちになってしまいました。
その人は、できの悪い孫に話すようにいろいろなことを話してくれました。
しかもその日だけでなく、次の日もその次の日も私の相手をしてくれました。
私はその人の名前も知りませんが、一度だけかばんの中に「廣済堂」という名前の入った本が入っているのが見えました。
あとになって分かったことですが「廣済堂」というのは出版社で、今では「廣済堂あかつき」という名前に変わって、道徳の教科書などを作っているところです。
写真スタジオへの転職の真実
祖父の面影を持つこの人との出会いが、私を正気に戻してくれました。
まだ30歳そこそこなんだから今からでも遅くない、自分のやりたい仕事をして生きていこう!そう思うようになりました。
その人と会ううちに、祖父のことや写真のことを思い出して、写真で生きていこうと決めました。
そのことを、その人に話すと、自分の知り合いに写真スタジオを経営している人がいるから紹介しようと言ってくれました。
こんなことがあって、その写真スタジオの社長が「うちに来い」と言ってくれたわけです。
廣済堂あかつきの道徳
このような経緯で、私の「反社会性パーソナリティ障害」は、廣済堂あかつきの道徳によって治してもらったんだと勝手に思っているのです。
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