~社会人編~島根秀明の人生を振り返る

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私は工業高校を卒業して就職して社会人になったのですが、その後1回の転職を経て独立し今の仕事に就きました。

今回は、社会人になってからのことについて書いてみます。

就職

高校3年のときに、父の「これからは自動車関係が伸びる」というアドバイスもあって東京浅草の機械部品製造工場を就職先に選びました。

そんなに大きくない会社でしたが、技術力が高くて、多くの自動車部品メーカーと取引をしていました。

同期入社は、私と千葉の工業高校出身のかなり真面目な人間の2人でした。もちろん私も真面目でしたよ(笑)

新米の頃の仕事

本社は浅草でしたが、工場は千葉にあり、会社の寮も工場の近くだったので最初の頃は工場勤務で現場作業でした。

とにかく、知らないこと、初めて経験することばかりだったので、仕事を覚えるのに精一杯でした。

でも、若かったのでエネルギーはありましたし、頭が柔軟だったんだと思いますが、何でもかんでもすぐに覚えていましたし、身についていたと思います。

あの頃のパワーが今の自分にあればと思いますね。

納品先のメーカーが多くて、会社ごとに部品の仕様が違っているので、同じような部品でも数十種類ものバリエーションがありました。

また、納品数も毎月バラツキが多くて、0個から数万個まで頻繁に変わっていましたので、現場の作業はかなり大変でした。

部品を切ったり削ったりという加工自体は機械が自動でやってくれるのですが、段取り替えは現場の作業者がやらなければなりませんし、部品のもとになる部材の供給も作業者の仕事です。

メーカーごとに使用する部材が違うこともあるので、それも間違えないようにしなければなりません。

そのころ私がよく思ったのは、毎日自動機械のために作業をしていて機械に使われているみたいだということでした。

そう言えば、チャップリンのトーキー映画にこういうのを風刺した場面がありましたね。

生産管理の仕事

入社後10年目くらいまでは工場勤務だったのですが、その後本社で生産管理の担当になりました。

千葉の他に埼玉にも新工場ができていたので、全社の毎日、毎週、毎月の各部品の生産計画を立てるというとんでもない仕事でした。

本社には大きなコンピューターがあって、それに受注量や納期を入力して各工場ごとの生産計画を立てるのですが、毎日取引先からの注文変更があるので、毎日生産計画が変わり、現場では段取替えが増えることになります。

現場の大変さを知っているだけに、なんとか段取り替えを減らすにはどうすればいいかと悩みに悩んで、週に何日も徹夜することがありました。

体調不良で入院、そして退社することに

こんなことが半年ぐらい続いたある日、ついに力尽きてしまいました。

朝から起きることができず、寮の管理人さんに救急車を呼んでもらったのです。

いろいろ検査をして分かったことは、大きなストレスによって神経がやられているということで、これが続くとストレスによって体の各部が病気になる心身症になるだろうということでした。

簡単に書くとこういうことですが、実際にはもっと会社の中でいろいろなことがあって不調になってしまったのです。

入院中に、自分の一度しかない人生をどう生きるかということを真剣に考えて、会社を退社するという一大決心をしました。

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