前回に引き続き、今回は私の学生時代(小・中・高)のことについて書いてみたいと思います。
小学生の頃
小学校は、公立小学校に通いました。
成績は、特別良いわけでもなく悪いわけでもなく普通だったと思います。
この普通というのは、良くも悪くもなく中間ぐらいということなんですが、言い換えれば得意なことが特になかったということになるんですよね。
でも実技系の科目では音楽や体育は普通でしたが、図画工作で絵を書いたり、工作で何かを作ったりするのは大好きでしたし、得意でした。
夏休みの宿題で何かを作って持っていったのですが、よくできているからということで校内コンクールで上位入賞したことがあります。
実はこの作品を作るときに、珍しく父がいろいろとアドバイスをしてくれて、それに従って作ったら入賞できたんです。
その時、「やっぱり僕の父はすごいな」と思ったことをよく覚えています。
学校に行くことは嫌いではなく、授業を受けることも嫌いではありませんでしたし、友だちと話したり遊んだりすることは楽しかったですし、面白かったです。
中学生の頃
中学校も公立中学校に進学したので、小学校の友達はほとんど同じ中学校でした。
でも成績の良い子の中には、東京の私立に進学した人たちもいましたね。
今で言う「お受験」なんでしょうね。
やはり成績は中ぐらいで、文系の科目よりは理系の科目の方が良かったと思います。
小学校の頃は、自分たちが子供だったので、大人である先生にあまり親しみを感じないというか、近寄りがたい感じを持っていたのですが、中学生になると先生の中には割と若い先生も多くて、お兄さんお姉さんという感じで仲良くしてもらいました。
部活をやっていると顧問の先生はやはり怖い存在なのでしょうが、私は部活はやっていなかったので、親しくなった先生とよく雑談をしていた記憶があります。
高校生の頃
高校は、公立の工業高校に進みました。
なぜ普通高校ではなく工業高校なのかというと、やはり父に憧れていたんですね。
高校を出たら父と同じように職人になると決めていましたから、工業高校で卒業後に役に立つ技術や知識を身に付けたかったんです。
例えば、図面が読めるとか、製図ができるとか、工作機械を使えるとか、普通高校では教えてくれないことがたくさん授業であるわけですね。
3年になって就職先を決めるときに、無口な父が珍しく「これからは自動車関係が伸びる」と言ったことがきっかけで、東京の浅草にある機械部品製造工場に決めました。
その会社は、小さな会社ですが技術力が高く、自動車部品を作っているいろんなメーカーに部品を納めているというような、自動車業界では割と有名な会社だったのです。
就職が内定すると、父がとにかく喜んでくれたので、私も嬉しかったです。
写真と無縁だった学生時代
当時の記憶をたどりながら書いたのですが、我ながら学生時代のトピックのないことに驚きました。
また、ほとんどカメラや写真と無縁な学生時代を過ごしていたんですね。
実は、私に写真を教えてくれた祖父は、私が小学5年生のときに亡くなったので、その後は自分で写真に触れることを封印していたような気がします。
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